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2024-07-02
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いずれの帝の御代であったか、大勢の女御、更衣がお仕えしているなかで、身分はそれほど高くはないが、ひときわ寵愛を受けていた更衣がいた。入内じゅだいのときから、われこそはと思い上がっていた女御たちは、その更衣を目障りな女、とさげすみ妬ねたんだ。それより下位の更衣たちは、なおのこと心安からず思っていた。朝夕の宮仕えのたびに、女御たちの心を掻き立て、怨みをかったせいか、その更衣は病気がちになり、里帰りがしげく、帝はいっそう更衣を不憫に思われ、人々のそしりをもかまわず、世間の語り草になるほどのご寵愛であった。
殿上人たちも、見ないふりをして、「大変なご寵愛ぶりだ。唐の国でもこのようなことがあって、世が乱れる悪い先例があった」と私語をかわし、世間でも苦々しく思い人々の噂の種になって、楊貴妃の例も引き合いに出され、更衣は居たたまれなかったが、恐れ多い帝の類ない御心をただ一筋の頼りとして仕えていた。
更衣の父の大納言は亡くなり、母は旧家の出で教養もあり、両親がそろっていて、当世の評判の高い人々にもさほど劣ることなく、どんな儀式もそつなくやってきたが、格別の頼りになる後見がないので、事あるときは、拠り所がなく心細げであった。
2022.12.21◎
1.2 御子誕生(一歳)
先の世にも御契りや深かりけむ、世になく清らなる玉の男御子をのこみこさへ生まれたまひぬ。いつしかと心もとながらせたまひて、急ぎ参らせて御覧ずるに、めづらかなる稚児の御容貌かたちなり。
一の皇子は、右大臣の女御の御腹にて、寄せ重く、疑ひなき儲もうけの君と、世にもてかしづききこゆれど、この御にほひには並びたまふべくもあらざりければ、おほかたのやむごとなき御思ひにて、この君をば、私物わたくしものに思ほしかしづきたまふこと限りなし。
初めよりおしなべての上宮仕うえみやづかへしたまふべき際きわにはあらざりき。おぼえいとやむごとなく、上衆じょうずめかしけれど、わりなくまつはさせたまふあまりに、さるべき御遊びの折々、何事にもゆゑある事のふしぶしには、まづ参まう上のぼらせたまふ。ある時には大殿籠おおとのごもり過ぐして、やがてさぶらはせたまひなど、あながちに御前おまえ去らずもてなさせたまひしほどに、おのづから軽き方にも見えしを、この御子生まれたまひて後は、いと心ことに思ほしおきてたれば、「坊にも、ようせずは、この御子の居たまふべきなめり」と、一の皇子の女御は思し疑へり。人より先に参りたまひて、やむごとなき御思ひなべてならず、皇女たちなどもおはしませば、この御方の御諌めをのみぞ、なほわづらはしう心苦しう思ひきこえさせたまひける。
かしこき御蔭をば頼みきこえながら、落としめ疵を求めたまふ人は多く、わが身はか弱くものはかなきありさまにて、なかなかなるもの思ひをぞしたまふ。御局みつぼねは桐壺なり。あまたの御方がたを過ぎさせたまひて、ひまなき御前渡りに、人の御心を尽くしたまふも、げにことわりと見えたり。参もう上りたまふにも、あまりうちしきる折々は、 打橋うちはし、渡殿わたどののここかしこの道に、 あやしきわざをしつつ、御送り迎への人の衣の裾、堪へがたく、まさなきこともあり。またある時には、え避さらぬ馬道めどうの戸を鎖しこめ、こなたかなた心を合はせて、はしたなめわづらはせたまふ時も多かり。事にふれて数知らず苦しきことのみまされば、いといたう思ひわびたるを、いとどあはれと御覧じて、後涼殿こうらうでんにもとよりさぶらひたまふ更衣の曹司ざうしを他に移させたまひて、上局うへつぼねに賜はす。その恨みましてやらむ方なし。前世でも深い契りがあったのであろうか、その更衣に世にも稀な美しい男の子が生まれた。帝は早く見たいと心がせいて、急ぎ参上させてご覧になるに、実に美しい容貌の稚児であった。
一の宮の皇子は右大臣の女御が生んだ子であったから、後見もしっかりし、当然皇太子だ、と世間でも見られていたが、この輝くような稚児の美しさには比べようもなく、帝は一の宮を公には大事に扱っていたが、この稚児は、自分のものとして特別に可愛がった。
もともとこの更衣は普通の宮仕えする身分ではなかった。世間の信望もあり貴人の品格もあったが、帝が無理にもそばに呼び、管弦の遊びの折々、また行事の折々に参上させた。あるときには寝過ごしてなお引き続きお傍に侍らせ、御前から去らせようとしなかったこともあり、身分の軽い女房のようにも見えたのだが、この稚児がお生まれになってからは、一段とご寵愛が深くなり、「ひよっとすると、この稚児が皇太子の御所に入るべきとお考えなのだろうか」と一の宮の女御は疑念をもつほどであった。この女御は最初に入内した方であったから、帝の思いも並々ならぬものがあり、皇女たちもいましたので、帝は一の宮の女御の苦言だけは、特にけむたくまたわずらわしく思っていたのだった。
おそれおおくも帝の庇護のみを頼りにしていたが、あらさがしをする人は多く、更衣は病弱で心もとない状態のなかで、かえって辛い思いをした。お部屋は桐壷であった。帝はたくさんの女御たちの部屋を通り過ぎて、ひんぱんに通うので、女御たちがやきもきするのも無理からぬことであった。更衣が御前に参上されるときも、あまりに繁くなると、打橋、渡殿などの通り道のあちこちに、よからぬ仕掛けをして、送り迎えの女官の着物の裾が汚れてどうにもならないこともあった。またあるときは、どうしても通らなけれならない馬道の戸が、示しあわせて閉じられて、中でみじめな思いをしたこともしばしばあった。事あるごとに嫌がらせにあって、すっかり気落ちした更衣を、帝はあわれに思い、後涼殿に元からいた更衣を他の局に移し、この更衣に上局として賜った。その怨みたるや、晴らしようがなかったであろう。いずれの帝の御代であったか、大勢の女御、更衣がお仕えしているなかで、身分はそれほど高くはないが、ひときわ寵愛を受けていた更衣がいた。入内じゅだいのときから、われこそはと思い上がっていた女御たちは、その更衣を目障りな女、とさげすみ妬ねたんだ。それより下位の更衣たちは、なおのこと心安からず思っていた。朝夕の宮仕えのたびに、女御たちの心を掻き立て、怨みをかったせいか、その更衣は病気がちになり、里帰りがしげく、帝はいっそう更衣を不憫に思われ、人々のそしりをもかまわず、世間の語り草になるほどのご寵愛であった。
殿上人たちも、見ないふりをして、「大変なご寵愛ぶりだ。唐の国でもこのようなことがあって、世が乱れる悪い先例があった」と私語をかわし、世間でも苦々しく思い人々の噂の種になって、楊貴妃の例も引き合いに出され、更衣は居たたまれなかったが、恐れ多い帝の類ない御心をただ一筋の頼りとして仕えていた。
更衣の父の大納言は亡くなり、母は旧家の出で教養もあり、両親がそろっていて、当世の評判の高い人々にもさほど劣ることなく、どんな儀式もそつなくやってきたが、格別の頼りになる後見がないので、事あるときは、拠り所がなく心細げであった。
2022.12.21◎
1.2 御子誕生(一歳)
先の世にも御契りや深かりけむ、世になく清らなる玉の男御子をのこみこさへ生まれたまひぬ。いつしかと心もとながらせたまひて、急ぎ参らせて御覧ずるに、めづらかなる稚児の御容貌かたちなり。
一の皇子は、右大臣の女御の御腹にて、寄せ重く、疑ひなき儲もうけの君と、世にもてかしづききこゆれど、この御にほひには並びたまふべくもあらざりければ、おほかたのやむごとなき御思ひにて、この君をば、私物わたくしものに思ほしかしづきたまふこと限りなし。
初めよりおしなべての上宮仕うえみやづかへしたまふべき際きわにはあらざりき。おぼえいとやむごとなく、上衆じょうずめかしけれど、わりなくまつはさせたまふあまりに、さるべき御遊びの折々、何事にもゆゑある事のふしぶしには、まづ参まう上のぼらせたまふ。ある時には大殿籠おおとのごもり過ぐして、やがてさぶらはせたまひなど、あながちに御前おまえ去らずもてなさせたまひしほどに、おのづから軽き方にも見えしを、この御子生まれたまひて後は、いと心ことに思ほしおきてたれば、「坊にも、ようせずは、この御子の居たまふべきなめり」と、一の皇子の女御は思し疑へり。人より先に参りたまひて、やむごとなき御思ひなべてならず、皇女たちなどもおはしませば、この御方の御諌めをのみぞ、なほわづらはしう心苦しう思ひきこえさせたまひける。
かしこき御蔭をば頼みきこえながら、落としめ疵を求めたまふ人は多く、わが身はか弱くものはかなきありさまにて、なかなかなるもの思ひをぞしたまふ。御局みつぼねは桐壺なり。あまたの御方がたを過ぎさせたまひて、ひまなき御前渡りに、人の御心を尽くしたまふも、げにことわりと見えたり。参もう上りたまふにも、あまりうちしきる折々は、 打橋うちはし、渡殿わたどののここかしこの道に、 あやしきわざをしつつ、御送り迎への人の衣の裾、堪へがたく、まさなきこともあり。またある時には、え避さらぬ馬道めどうの戸を鎖しこめ、こなたかなた心を合はせて、はしたなめわづらはせたまふ時も多かり。事にふれて数知らず苦しきことのみまされば、いといたう思ひわびたるを、いとどあはれと御覧じて、後涼殿こうらうでんにもとよりさぶらひたまふ更衣の曹司ざうしを他に移させたまひて、上局うへつぼねに賜はす。その恨みましてやらむ方なし。前世でも深い契りがあったのであろうか、その更衣に世にも稀な美しい男の子が生まれた。帝は早く見たいと心がせいて、急ぎ参上させてご覧になるに、実に美しい容貌の稚児であった。
一の宮の皇子は右大臣の女御が生んだ子であったから、後見もしっかりし、当然皇太子だ、と世間でも見られていたが、この輝くような稚児の美しさには比べようもなく、帝は一の宮を公には大事に扱っていたが、この稚児は、自分のものとして特別に可愛がった。
もともとこの更衣は普通の宮仕えする身分ではなかった。世間の信望もあり貴人の品格もあったが、帝が無理にもそばに呼び、管弦の遊びの折々、また行事の折々に参上させた。あるときには寝過ごしてなお引き続きお傍に侍らせ、御前から去らせようとしなかったこともあり、身分の軽い女房のようにも見えたのだが、この稚児がお生まれになってからは、一段とご寵愛が深くなり、「ひよっとすると、この稚児が皇太子の御所に入るべきとお考えなのだろうか」と一の宮の女御は疑念をもつほどであった。この女御は最初に入内した方であったから、帝の思いも並々ならぬものがあり、皇女たちもいましたので、帝は一の宮の女御の苦言だけは、特にけむたくまたわずらわしく思っていたのだった。
おそれおおくも帝の庇護のみを頼りにしていたが、あらさがしをする人は多く、更衣は病弱で心もとない状態のなかで、かえって辛い思いをした。お部屋は桐壷であった。帝はたくさんの女御たちの部屋を通り過ぎて、ひんぱんに通うので、女御たちがやきもきするのも無理からぬことであった。更衣が御前に参上されるときも、あまりに繁くなると、打橋、渡殿などの通り道のあちこちに、よからぬ仕掛けをして、送り迎えの女官の着物の裾が汚れてどうにもならないこともあった。またあるときは、どうしても通らなけれならない馬道の戸が、示しあわせて閉じられて、中でみじめな思いをしたこともしばしばあった。事あるごとに嫌がらせにあって、すっかり気落ちした更衣を、帝はあわれに思い、後涼殿に元からいた更衣を他の局に移し、この更衣に上局として賜った。その怨みたるや、晴らしようがなかったであろう。
2022.12.21◎
1.3 若宮の御袴着(三歳)
この御子三つになりたまふ年、御袴着はかまぎのこと一の宮のたてまつりしに劣らず、内蔵寮くらづかさ、納殿をさめどのの物を尽くして、いみじうせさせたまふ。それにつけても、世の誹りのみ多かれど、この御子のおよすげもておはする御容貌かたち心ばへありがたくめづらしきまで見えたまふを、え嫉そねみあへたまはず。ものの心知りたまふ人は、「かかる人も世に出でおはするものなりけり」と、あさましきまで目をおどろかしたまふ。この稚児が三歳になった年、御袴着の行事は一の宮に劣らず、内蔵寮、納殿の宝物をふんだんにつかって盛大に行った。このようなやり方に世間の批判も多かったが、この御子の早熟な容姿の世にも稀な美しさに、そんな非難も自然におさまっていった。物知りの老人たちも「このような美しい子供が本当にいるものだ」と讃嘆の声をあげたのであった。
2022.12.21◎
1.4 母御息所の死去
その年の夏、御息所みやすみどころ、はかなき心地にわづらひて、まかでなむとしたまふを、暇いとまさらに許させたまはず。年ごろ、常の篤あつしさになりたまへれば、御目馴れて、「なほしばしこころみよ」とのみのたまはするに、日々に重おもりたまひて、ただ五六日のほどにいと弱うなれば、母君泣く泣く奏して、まかでさせたてまつりたまふ。かかる折にも、あるまじき恥もこそと心づかひして、御子をば留めたてまつりて、忍びてぞ出でたまふ。
限りあれば、さのみもえ留めさせたまはず、御覧じだに送らぬおぼつかなさを、言ふ方なく思ほさる。いとにほひやかにうつくしげなる人の、いたう面痩せて、いとあはれとものを思ひしみながら、言に出でても聞こえやらず、あるかなきかに消え入りつつものしたまふを御覧ずるに、来し方行く末思し召されず、よろづのことを泣く泣く契りのたまはすれど、御いらへもえ聞こえたまはず、まみなどもいとたゆげにて、いとどなよなよと、 我かの気色にて臥したれば、いかさまにと思し召しまどはる。輦車てぐるまの宣旨せんじなどのたまはせても、また入らせたまひて、さらにえ許させたまはず。
「限りあらむ道にも、後れ先立たじと、契らせたまひけるを。さりとも、うち捨てては、え行きやらじ」
とのたまはするを、女もいといみじと、見たてまつりて、
「限りとて別るる道の悲しきに
いかまほしきは命なりけり
いとかく思ひたまへましかば」
と、息も絶えつつ、聞こえまほしげなることはありげなれど、いと苦しげにたゆげなれば、かくながら、ともかくもならむを御覧じはてむと思し召すに、「今日始むべき祈りども、さるべき人びとうけたまはれる、今宵より」と、聞こえ急がせば、わりなく思ほしながらまかでさせたまふ。
御胸つとふたがりて、つゆまどろまれず、明かしかねさせたまふ。御使の行き交ふほどもなきに、なほいぶせさを限りなくのたまはせつるを、「夜半うち過ぐるほどになむ、絶えはてたまひぬる」とて泣き騒げば、御使もいとあへなくて帰り参りぬ。聞こし召す御心まどひ、何ごとも思し召しわかれず、籠もりおはします。
御子は、かくてもいと御覧ぜまほしけれど、かかるほどにさぶらひたまふ、例なきことなれば、まかでたまひなむとす。 何事かあらむとも思したらず、さぶらふ人びとの泣きまどひ、主上うえも御涙のひまなく流れおはしますを、あやしと見たてまつりたまへるを、よろしきことにだに、かかる別れの悲しからぬはなきわざなるを、ましてあはれに言ふかひなし。その年の夏、桐壷の更衣が心細くも病気になり、里へ帰ろうとしたが、帝は暇をとらせなかった。この頃は常日頃から病気がちだったので、帝はそのことに慣れてしまい、「もう少しここで養生しなさい」と仰せになるので、日に日に悪くなり、五六日で目に見えて弱ってしまい、母君が泣く泣く上奏して、里帰りさせた。このような事態にも、万一の不慮の失態を用心して、御子を宮中に残して、こっそり退出した。
宮中の定めがあるため、むやみに引き止めることもできず、見送りすることもできず、帝は言葉で表せないお気持ちであった。匂うような美しい方が、顔はひどく痩せ、悲しい思いで胸いっぱいになりながら言葉で訴えるでもなし、消え入りそうな様子でいるのを見ると、帝は大変不憫に思い、後先のことを顧みず、様々ことを泣きながら約束したが、返事はなく、目つきはもの憂げで、身が弱弱しく、意識はもうろうとして臥しているので、帝はどうしたらよいか分からす戸惑うのであった。手車を許可する宣旨せんじも出したが、すぐ自分が更衣の部屋に入ってしまい、どうしても手放さない。
「死ぬ時も一緒、後れたり先んじたりしない、と約束していたではないか。まさかわたしを捨てて先には行かせないぞ」
と帝が仰せになるので、更衣も感に堪えた様子で、
(更衣)「死んでお別れするのは悲しいです
わたしが願っているのは生きる命です
このように強く思っています」
と息も絶えだえに、何か言い出そうとしたことはあったが、いかにも苦しそうなので、帝はこのまま最後まで傍にいようと思ったが、「今日から祈祷を始めます。祈祷師たちも準備しております、今夜から」と更衣の母が急いでいたので、仕方なしに 退出をお許しになった。
帝は、悲しみで胸がいっぱいになり、片時もまどろみせず、夜を明かしかねた。使いの往来の時も経っていないのに、限りなく鬱屈した胸の内を洩らしていると、「夜半過ぎ、お亡くなりになりました」とて里の者たちが泣き騒ぐので、使いの者もがっかりして帰ってきた。帝はそれを聞いて何も分からなくなり、部屋にこもってしまう。
このような事態でも、帝は若宮を手元で見ていたいと思ったが、親の喪中では前例がなかったので、母の里に退出させることになった。若宮は何があったのか分からず、おつきの人々が泣きまどい、帝もたえず涙を流しておられたので、不審そうにしていたが、普通でも母との死別は悲しいことであるのに、まして頑是ない若宮はこの上なくあわれだった。
2022.12.21◎
1.5 故御息所の葬送
限りあれば、例の作法にをさめたてまつるを、母北の方、同じ煙にのぼりなむと、泣きこがれたまひて、御送りの女房の車に慕ひ乗りたまひて、愛宕をたぎといふ所にいといかめしうその作法したるに、おはし着きたる心地、いかばかりかはありけむ。「むなしき御骸からを見る見る、なほおはするものと思ふが、いとかひなければ、灰になりたまはむを見たてまつりて、今は亡き人と、ひたぶるに思ひなりなむ」と、さかしうのたまひつれど、車よりも落ちぬべうまろびたまへば、 さは思ひつかしと、人びともてわづらひきこゆ。
内裏うちより御使あり。三位みつの位贈りたまふよし、勅使来てその宣命読むなむ、悲しきことなりける。女御とだに言はせずなりぬるが、あかず口惜しう思さるれば、いま一階ひときざみの位をだにと、贈らせたまふなりけり。これにつけても憎みたまふ人びと多かり。もの思ひ知りたまふは、様、容貌などのめでたかりしこと、心ばせのなだらかにめやすく、憎みがたかりしことなど、今ぞ思し出づる。 さま悪しき御もてなしゆゑこそ、すげなう嫉みたまひしか、人柄のあはれに情けありし御心を、主上の女房なども恋ひしのびあへり。なくてぞとは、かかる折にやと見えたり。定め事なので、普通に火葬にして納めるのだが、母の北の方が娘と同じ煙になるのだと泣きだして、お見送りの女房の車に追いかけて乗り込み、愛宕をたぎというところで厳粛な儀式の最中にお着きになった心地は、いかばかりであったろうか。「御骸をよくよく見てもまだ生きているよに思われたが、灰になってしまったのを見ると、もういないのだ、とすっかり諦めもつきました」と冷静に言っていたが、車から落ちそうになって転がったので、やっぱり思った通りだ、と人々も手を焼いていた。
内裏より使いがあった。三位の位を賜り、勅使が来てその宣命を読むのも悲しかった。女御と呼ばれず逝ってしまったのが、帝はとても口惜しく思われたので、一位上の位を賜った。これにつけてもに憎々しく言う人たちが多かった。物知りの老人たちは、更衣の姿・容貌の美しかったこと、気持ちが穏やかで親しみがあり、憎めないない人だったことなど、今思い出すのであった。帝の度を過ぎたご寵愛のゆえに、つれなく妬ねたまれたのだが、更衣のものに感じやすく情けある人柄を女房たちは懐かしがった。亡くてぞの歌は、このことを詠ったものだろう。
2022.12.21◎
1.6 父帝悲しみの日々
はかなく日ごろ過ぎて、後のわざなどにもこまかにとぶらはせたまふ。ほど経るままに、せむ方なう悲しう思さるるに、御方がたの御宿直とのいなども絶えてしたまはず、ただ涙に ひちて明かし暮らさせたまへば、見たてまつる人さへ露けき秋なり。「亡きあとまで、人の 胸あくまじかりける人の御おぼえかな」とぞ、弘徽殿こきでんなどにはなほ許しなうのたまひける。一の宮を見たてまつらせたまふにも、若宮の御恋しさのみ思ほし出でつつ、親しき女房、御乳母などを遣はしつつ、ありさまを聞こし召す。疾とく日は過ぎて、七日毎の法要もねんごろに行わせた。日が経つほどに、帝はどうしようもなく悲しくなり、女御、更衣たちの夜のお勤めも途絶えてしまい、ただ涙にくれて暮らして、見ている人びとさえ湿っぽい露の秋になった。「亡くなったあとまで、胸がかきむしられるほどのご寵愛だこと」と弘徽殿の女御は手厳しく言っていた。一の宮をご覧になっても、若宮のみ恋しく思い出して、親しい女房や乳母などを遣わして様子を聞いていた。
2022.12.21◎
1.7 靫負命婦の弔問
野分立ちて、にはかに肌寒き夕暮のほど、常よりも思し出づること多くて、 靫負命婦ゆげひのみょうぶといふを遣はす。夕月夜のをかしきほどに出だし立てさせたまひて、やがて眺めおはします。かうやうの折は、御遊びなどせさせたまひしに、心ことなる物の音を掻き鳴らし、はかなく聞こえ出づる言の葉も、人よりはことなりしけはひ容貌の、面影につと添ひて思さるるにも、闇の現うつつにはなほ劣りけり。
命婦、かしこに参まで着きて、門かど引き入るるより、けはひあはれなり。やもめ住みなれど、人一人の御かしづきに、とかくつくろひ立てて、 めやすきほどにて過ぐしたまひつる、闇に暮れて臥し沈みたまへるほどに、草も高くなり、野分にいとど荒れたる心地して、月影ばかりぞ八重葎やへむぐらにも障さはらず差し入りたる。
南面みなみおもてに下ろして、母君も、 とみにえものものたまはず。
「今までとまりはべるがいと憂きを、かかる御使の蓬生よもぎふの露分け入りたまふにつけても、いと恥づかしうなむ」
とて、げにえ堪ふまじく泣いたまふ。
「『参りては、いとど心苦しう、心肝こころぎもも尽くるやうになむ』と、 典侍ないしのすけの奏したまひしを、 もの思うたまへ知らぬ心地にも、げにこそいと忍びがたうはべりけれ」
とて、ややためらひて、仰せ言伝へきこゆ。
「『しばしは夢かとのみたどられしを、やうやう思ひ静まるにしも、覚むべき方なく堪へがたきは、いかにすべきわざにかとも、問ひあはすべき人だになきを、忍びては参りたまひなむや。若宮のいとおぼつかなく、露けき中に過ぐしたまふも、心苦しう思さるるを、とく参りたまへ』など、 はかばかしうものたまはせやらず、むせかへらせたまひつつ、かつは人も心弱く見たてまつるらむと、思し つつまぬにしもあらぬ御気色の心苦しさに、承り果てぬやうにてなむ、まかではべりぬる」
とて、御文奉る。
「目も見えはべらぬに、かくかしこき仰せ言を光にて なむ」とて、見たまふ。
「ほど経ばすこしうち紛るることもやと、待ち過ぐす月日に添へて、いと忍びがたきは わりなきわざになむ。いはけなき人をいかにと思ひやりつつ、 もろともに育まぬおぼつかなさを。今は、なほ昔のかたみになずらへて、ものしたまへ」
など、こまやかに書かせたまへり。
「宮城野の露吹きむすぶ風の音に
小萩がもとを思ひこそやれ」
とあれど、え見たまひ果てず。
「命長さの、いとつらう思うたまへ知らるるに、松の思はむことだに、恥づかしう思うたまへはべれば、百敷に行きかひはべらむことは、ましていと憚り多くなむ。かしこき仰せ言をたびたび承りながら、みづからはえなむ思ひたまへたつまじき。若宮は、いかに思ほし知るにか、参りたまはむことをのみなむ思し急ぐめれば、ことわりに悲しう見たてまつりはべるなど、うちうちに思うたまふるさまを奏したまへ。ゆゆしき身にはべれば、かくておはしますも、 忌ま忌ましう かたじけなくなむ」
とのたまふ。宮は大殿籠もりにけり。
「見たてまつりて、くはしう御ありさまも奏しはべらまほしきを、待ちおはしますらむに、夜更けはべりぬべし」とて急ぐ。
「暮れまどふ心の闇も堪へがたき片端をだに、はるくばかりに聞こえまほしうはべるを、 私にも心のどかにまかでたまへ。年ごろ、うれしく面だたしきついでにて立ち寄りたまひしものを、かかる御消息にて見たてまつる、返す返すつれなき命にもはべるかな。
生まれし時より、思ふ心ありし人にて、故大納言、いまはとなるまで、『ただ、この人の宮仕への本意、かならず遂げさせたてまつれ。我れ亡くなりぬとて、口惜しう思ひくづほるな』と、返す返す諌めおかれはべりしかば、はかばかしう後見思ふ人もなき交じらひは、なかなかなるべきことと思ひたまへながら、ただかの遺言を違へじとばかりに、出だし立てはべりしを、身に余るまでの御心ざしの、よろづにかたじけなきに、人げなき恥を隠しつつ、交じらひたまふめりつるを、人の嫉み深く積もり、安からぬこと多くなり添ひはべりつるに、横様なるやうにて、つひにかくなりはべりぬれば、かへりてはつらくなむ、かしこき御心ざしを思ひたまへられはべる。これもわりなき心の闇になむ」
と、言ひもやらずむせかへりたまふほどに、夜も更けぬ。
「主上うえもしかなむ。 『我が御心ながら、 あながちに人目おどろくばかり思されしも、長かるまじきなりけり と、今はつらかりける人の契りになむ。世にいささかも人の心を曲げたることはあらじと思ふを、ただこの人のゆゑにて、あまたさるまじき人の恨みを負ひし果て果ては、かううち捨てられて、心をさめむ方なきに、 いとど人悪ろう かたくなになり果つるも、 前の世ゆかしうなむ』と うち返しつつ、御しほたれがちにのみおはします」と語りて尽きせず。泣く泣く、「夜いたう更けぬれば、今宵過ぐさず、御返り奏せむ」と急ぎ参る。
月は入り方の、空清う澄みわたれるに、風いと涼しくなりて、草むらの虫の声ごゑもよほし顔なるも、いと立ち離れにくき草のもとなり。
「鈴虫の声の限りを尽くしても
長き夜あかずふる涙かな」
えも乗りやらず。
「いとどしく虫の音しげき浅茅生に
露置き添ふる雲の上人
かごとも聞こえつべくなむ」
と言はせたまふ。をかしき御贈り物などあるべき折にもあらねば、ただかの御形見にとて、かかる用もやと残したまへりける御装束一領さうぞくひとくさり、 御髪上げみぐしあげの調度めく物添へたまふ。
若き人びと、悲しきことはさらにも言はず、内裏わたりを朝夕にならひて、いとさうざうしく、主上の御ありさまなど思ひ出できこゆれば、とく参りたまはむことをそそのかしきこゆれど、「かく忌ま忌ましき身の添ひたてまつらむも、いと人聞き憂かるべし、また、見たてまつらでしばしもあらむは、いとうしろめたう」思ひきこえたまひて、 すがすがともえ参らせたてまつりたまはぬなりけり。野分の時節になり、にわかに肌寒くなった夕暮れ時、(帝は)常にもまして思い出すことが多くて、靫負命婦ゆげひのみょうぶという者を遣わした。穏やかな夕月夜に出立させると、帝はぼんやり物思いにふけった。このような折には、更衣と管弦の遊びをしたものだが、ことに思い入れ深く音色はすばらしく、か細くでる言葉も、きわだった容姿も、面影が思い出され、それでも闇の中の現実にも及ばなかった。
命婦は、更衣の里に着いて門より入ると、邸の様子にあわれを感じた。更衣の母のひとり住まいだが、ひとり娘を大事に育てるために、手入れもし、見苦しくない暮らしぶりであったが、娘を亡くして心の闇に沈んでいるうちに、雑草はのび、野分の風に庭も荒れ、八重葎もさえぎらず、さやかに月影が差し込んでいた。
南正面の客間に招じられたが、命婦も母君もしばらく黙して語らない。
「今日まで生き残っているのがまことに辛いのですが、このようなご使者を草深い所にお迎えするのは、身の置き所もありません」
と、堪えられずに泣きくずれた。
「『お見舞いに参って、とてもお気の毒で、胸が張り裂けそうでした』と典侍が奏しましたが、ものの情けを知らないわたしのような者も感極まりました」
と、ためらいながら仰って、帝の伝言をお伝えした。
「『しばらくは夢かと思い惑いましたが、ようやく思いも静まると、覚めるものではなく、堪えがたい気持ちはどうすればよいか話し相手もいないので、お忍びで来てほしい。若宮も待ち遠しく、喪中のなかに過ごさせているのは、心苦しく早く参内してほしい』などと、はっきりと仰せにならず、帝が、涙にむせかえりつつ、また心弱くみられるているのではないかと周囲に気がねしているご様子に、お言葉を終わりまでお聞きできずに退出してきました」
と言って命婦は、帝の文をお渡しした。
「親の心の闇で見えないので、恐れ多くも帝の言葉を光りとして」と言って、ご覧になる。
「時が経てば少しは気持ちもまぎれるかと思ったが、月日が経つにつれて、ますます堪えがたく辛くなる。若宮はどうしているかと案じながらも、一緒に育てられないのが気がかりです。今はせめて若宮を形見と見て、おいで下さい」
などと、帝は、細やかな心配りである。
(帝)「宮城野に吹く風の音を聞くにつけ
若宮はどうしているか思いやっている」
と書いているが、涙に曇ってて最後まで見えない。
「長く生きるのは辛いことだと知りまして、長寿の高砂の松の思いを恥じております身ですの、宮中へ行くことは大変差しさわりがあります。帝の恐れ多いお言葉をたびたび頂きながら自分からは参内するつもりはありません。若宮は、どのようにお知りになったのか、すぐにも参りたいと思っているようですが、その自然の情を悲しく感じております、と内々に思っていることをお伝え願いたい。不幸が重なった身ですので、お忍びでも忌むべく恐れ多いことでございます」
と母は仰る。若宮は寝てしまった。
「お会いした様子を詳しくご報告したいのですが、帝がお待ちになっておられますので、夜更けになります」と命婦は急いでいる。
「親の心の闇のなかで悲しみに沈んでいますが、その一端でも気持ちが晴れあがった時に聞いて欲しいので、今度は私用で来てほしい。常日頃はうれしい名誉な使者としていらしていたのに、このような事情でお越しいただくのは、返す返すもつれない定めと感じ入っております。
更衣は、生まれた時から、望みをかけた子でして、故大納言が今わの際まで『この子の宮仕えの本懐を遂げさせてくれ。わたしが亡くなったからといって、気持ちが折れてあきらめるな』と繰り返し遺言されたので、頼りになる後見の人がないまま宮仕えさせたのは、大変なことでしたけれど、ただこの遺言だけを守って出仕させましところ、帝の身にあまる御心ざしはかたじけなく、尋常ならぬ恥を隠して、交らっておりましたが、人々の妬みが積もり、安からぬことが多くなり、横死のようになってしまいましたので、顧みれば、辛いお仕打ちであったと、恐れ多い御心を思っております。これも親の心の闇の惑いでしょうか」
と母が、涙にむせんで話すうちに、夜が更けていった。
「帝もそう思っておられます。『自分の心ながら、どうにもならず、人が驚くほどの思いを更衣に寄せたのも、長く続くはずのない仲だったのだろうか、今思うに実に辛い因縁であった。人の気持ちを損なうことはするまいと思っていたが、ただこの女性ゆえに、多くの人の恨みをかい、このようにひとり残されて、気持ちの整理がつかず、性格が悪く偏屈になりなったのも、どんな前世の因縁か知りたい』と帝はくりかえし涙を流しておられます」と語りつくせない。涙ながらに「夜もすっかり更けました、今宵のうちにご報告をしなければ」と言って、命婦は急いでいる。
山の端に月はかたぶき、空は澄みわたり、風は涼しく、草むらの虫の声は涙を誘い、立ち去り難い風情があった。
(命婦)「鈴虫が声の限りに鳴きつくす それに誘われ
わたしの涙も長い夜にも尽きることがない」
命婦は、とても車に乗る気になれない。
(更衣の母)「虫が鳴きしきるこの草深い住いに来て
殿上人が涙を流しています」
愚痴めいたことも申しました」
と侍女に伝言している。趣のある物を贈るときでもないので、このような折もあろうかと残しておいた、更衣の形見の装束一式御髪あげ道具一式を添えた。
若い侍女たちは、悲しいことは悲しかったし、内裏の様子










